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土山 > 坂下

小春日に 風、人、店も なく受けた
返した恩の 碑は語りつぐ
土山の東見附を出てすぐの、お六櫛の碑。お六櫛は、中山道藪原宿の名物。
江戸時代にその櫛職人が京へ行く途中、重病になったが、この里の民家で養生させてもらい、一命をとりとめた。その後、恩に報いようと、再度訪れて、櫛の製法を教えたとか。
でも、今は十軒あまりの業者もなくなって、この碑のみとか。
吹け波ふけ 櫛を買いたり 秋乃風(上島鬼貫)

見回して みても道無し 参道が
街道になる 田村の社
田村神社参道。街道をまっすぐ進むと、正面に鳥居。はて、街道はどこへ行ったのやら?
なんと、鳥居をくぐっての参道がそのまま東海道。なんと。
まっすぐな 山下画伯 まっすぐに
木高く描く 田村の社
山下清画伯も、ここを描いたそうな。これまた、なんと。放浪の画家、裸の大将、くらいは知っていたけど、東海道を歩いていたとは。約5年の歳月をかけて、55枚の絵を描いているそうな。「1日にあちこち廻っている人と比べて、深みが違うよね。」...ま、まぁ、そうしているとなかなか先に進みませんしね。
枝は羽根 幹はまっすぐ 矢の如く
大地にささる 田村の社
田村神社。かなり大きな森ですね。木々も神々しい。

祀られた 縁起にちなむ 大きな矢
くぐり願掛け 田村の社
田村神社、名前のとおり、坂上田村麻呂を奉る。田村麻呂が鈴鹿峠の悪鬼を悪鬼を平定した矢の功徳で万民の災いを防ごうと、矢をを放ち、落ちたところに奉ったとのこと。大変大きな神社です。

元伊勢と 言われるだけに 境内の
禊ぎ御手洗 川清らかに
田村神社。本殿のさらに奥に、みそぎをするような場所が。いや~、こういうの、初めて見ました。境内を流れている小川が本殿の後ろに引き込まれています。本当にみそぎという感が伝わってきますね。

三文銭 今は無料に なったれど
行く人はなし 田村川橋
田村神社の江戸側入り口にかかる田村川橋。広重の雨の土山は、ここを通る大名行列を描いたそうな。
幕府の用で通行する人たち、武家の家族、近隣の百姓で川向こうに田畑があり毎日橋を渡って生活しなければならない人は無料だったとか。

つわものの 夢の跡も 整備され
きれいな公園 古戦場跡
蟹坂古戦場跡。戦国時代に、伊勢の国司北畠氏が、ご当地山中氏を攻めたのに対して、近江守護の六角氏が援軍を送って撃破した戦。
まあ、思うに、鈴鹿峠を越え時点で、かなり体力に差がついてたんじゃないかと。

大きさに 車の音に 大蟹も
出てはくるまい 鈴鹿国道
蟹塚の近く。平安の昔、このあたりには3メートルほどの大蟹がいて人々を悩ましていたそうな。恵心僧都源信が説法をすると、蟹の甲羅が八つに割れ、それを埋めたのが蟹塚。
まあ、今や大きさ重さも数倍の大型トラックが、猛スピードでひっきりなしに行き交うのを見たら、蟹さんも泡を吹くかも(失礼 m(_ _)m)

車では 気づかぬ脇の 道に入る
昔立て場の 猪鼻の村
車で通ると、坂下側からだと信号機があるのですが、土山側からだと絶対に気づかないような脇道を入っていきます。とてもしずかな集落ですね。
昔は、土山側にもかなり険しい猪鼻峠があったらしいので、鈴鹿峠との間にあって、休憩が必要な場所だったようです。
旅籠や茶店もあり、雨具の蓑やよもぎ餅、飴、水飲みなども売られていたそうです。

谷を無視 橋を渡って 山を無視
トンネル抜ける 新名神は
山中の一里塚の上を新名神高速がゆく。最近の若い道ときたら、谷も、山も、関係なく、まっすく進んで、情緒も何もあったもんじゃ...。まあ、大変便利になりましたが。
写真の右が、4車線の国道1号線。左に行くのが旧街道です。振り向けば、山に入っていく旧街道は、通行止めになってました。ここまでは、国道1号の歩道を来ました。

旧道が 消えてしまうは 寂しいが
ブンブン車も いかがなものよ
鈴鹿峠、だいぶん進んできたのかな?
なんか、思っていた感じでは、車の道と旧道が同じだとしても、2車線の道くらいでしたが、ここはずっと4車線。トラックがブンブン飛ばしてますね。交通量も結構あって、ちょっと、つらいですね。
空模様 鈴鹿峠が 近づけば
もくもく出ずる 不安も雲も
鈴鹿峠、なんか曇ってきましたね。「大丈夫だよね?」...えっ? まあ、このとっくにお昼を過ぎた時刻から山に入るのは、どうでしょうかね。ちょっと不安。

峠道 随分のぼり 今ここで
プツンと歩道 なくなるか、おい!
延々と片側2車線の国道1号線の歩道を上ってきましたが、ここにきて、歩道がない! えっ、車道歩くの? 大型トラックがバンバン走ってますけど...。何か下の方に降りていくような、獣道っぱいものも...。
右の横道にそれてちょっと覗くと、東海自然歩道の案内板。そういや、ガイドの本に、何か東海自然歩道がどうたらこうたら、書いてあったような。

どうやって 持ってきたのか 積んだのか
見あぐばかりの 常夜燈かな
鈴鹿峠の鞍の部分の少し手前、土山側。まあ、でかいですね。灯りをともすところの空間も大きいですね。
確実に言えることは、土山側から持ってきたんだと思いますよ。坂下側からはぜったいムリ!

海おもう 伊勢なる国の 入口は
木々覆い立つ 山の道かな
写真を見てのとおり、手前が近江の国、木々が生い茂っているのが伊勢の国、木々の中央のトンネルみないなのが、東海道。まじ~!
これ、二人連れだと、面白そうじゃないか...だと思うんだけど、ひとりじゃ、ちょっと尻込みしますね。
「写真の木々手前の右の方に道があるようだから、行ってみたら?」...絶対迷うわ!!

自動車の 騒音絶えて だんだんと
道もぬかるむ 鈴鹿の峠
いよいよ、鈴鹿峠!!...の下りですね。
国ざかい 越えれば暗く 木々覆い
一歩一歩を そろりと進む
この先、どんな道が待ってることやら?

父母と 離れて十で 鈴鹿しも
わくわくなりや 歌仙の姫子
昔、伊勢神宮の斎宮として鈴鹿峠を越えられたひとりに、斎宮女御がおられる。この方、当時わずか10歳。なんと可哀想な。
17歳の時、母親がお亡くなりになられたので、都へ戻られた。ますます可哀想。
その後村上天皇の女御となられたが、一人娘がまたもや斎宮に選ばれ、娘に付き添って再度鈴鹿峠を越えられた。その時、歌われたのが、
世にふれば またも越えけり 鈴鹿山
むかしの今に なるにやあるらむ (斎宮女御)
まあ思うんですが、三十六歌仙にも数えられる才女なので、ひょっとしたら、両親の心配をよそに、わくわくしながら鈴鹿を越えたんじゃないかと。二度目の娘に同行したのも、娘の心配よりも歌心をくすぶられてかなという気がしますね。
「あれ何?」「これ何?」「ちょっと待って、これは?」
「次回から斎宮選びは、子供を外そう!」 (失礼 m(_ _)m)

険しくも 越えねば笑わる 鈴鹿道
歌仙の姫も 二度も越えしに
斎宮が鈴鹿峠を越えられるときって、やはり輿に乗ってですかね。都をでるときは葱華輦に乗って、などとありますが、峠もそうなのかな? 輿を水平に保って峠を上り下りできるもんでしょうかね。こんぴらさんの石段の籠なら、横向きにふたり一緒に上り下りできますがね。
石部から 水口土山 なだらかに
登りし峠 一気に降らん
何度も言いますが、土山側はゆるやかな上り坂、感覚としては、別に山というか峠を上っているような感じはしません。しかし、反対側は切り立ってますね。
山に登るときは、急な登りでも、頂上から見える風景を思ったり、帰りの下りの快適さを思ってのぼるのですが、ここはそれがありませんね。
さあ鈴鹿 峠の道に 入ったと
思えば下り そこが頂上
この辺まで下ると、峠の全貌に気がつきますね。あれが、頂上だったのかと。もう一度上るとか、なさそうですね。
緩やかに ゆるりとのぼり 気がつけば
上まで来ていた 鈴鹿の峠
「鈴鹿の歌、多いね」...まあね。でも全体の姿が分かると思うんだけど、これ、逆に坂下側から、急な登りを上がっていたら、歌の数ももっと多かったかもしれないね。
京都から はじめてよかった 東海道
いいとこどりで 雰囲気もらい
「登りが急な坂下側から上っていたら、歌の内容も、変わっていただろうね。」 ...そうだね。つらい、しんどい、のどの渇きが、水が、くるんじゃなかった、とか? 「よかった、そんなのにつきあわされなくて」 ...そりゃ、どうも。
昔、鈴鹿を詠んだ歌も、内容見たら、どちら側からやってきたのか、なんとなく分かるようになったりして。「なんか、手相を見て、人生のつらい経験をあてる人みたいだね。」

茶畑を 楽しく来れば 国ざかい
足もと深き 鈴鹿の峠
鈴鹿峠の伊勢側くだり。土山側は、ゆっくりとした上りなので、峠というような感じはあまりしませんでしたが、伊勢側はすごいですね。普通、峠って、両側が同じくらいの坂道だと思うんですが、こんなところもあるんですね。トンネルを抜けたら...じゃないですが、急に別世界に入った感がありますね。
昔から その名響けど 行く人も
聞く人もなき 鈴鹿の峠
鈴鹿峠の伊勢側くだり。う~ん、誰も歩いてませんね。「そりゃそうでしょう。」...そうだよね。

馬の気を 察するほどに 急な坂
上り途中の 水飲み場かな
鈴鹿峠の馬の水飲み鉢。
ここ、坂下側から上るのは、お馬さんだって、しんどいでしょうね。

芭蕉詠む 五七五も 息上がり
右から左 鈴鹿の峠
鈴鹿峠の松尾芭蕉の句碑。
ほつしんの 初にこゆる 鈴鹿山(芭蕉)
...当然、家に帰ってから、しかも何日か経ってから、句の内容を写真でじっくり見たのですが...。いや~っ、これ、分かりますね。いいですね、この句。大絶賛。

コンクリの 階段できる 前までは
断崖絶壁 どこ歩いてた
山道をジグザグに下ると、国道脇へ。そこから下に延びる階段です。昔はどうなっていたのでしょうかね。ハイカーが行く程度じゃなく、大名も含めて、本当にここを沢山の人が行き来していたのうでしょうか?というのが実感ですね。

越えにけり はじめの峠 発心が
安堵のくだり いつまで続く
芭蕉の俳句を受けてですが、私的には最初の山を越えた時点で、満足感が湧いて、あとは下火になっていくというパターンが多いような気がしますね。夏休みの宿題で、1教科終わったら、もう済んだ気分になって、遊びほうけるような。このてくてく東海道も大丈夫でしょうかね?
鈴鹿坂 八丁二十 七曲
戻らないから スイスイ下る
今日の行程では、関の宿まで行って、そこから電車で帰るので、この道は下るのみ。帰りも同じ道なら、下りなかったかもね。

急な坂 下りたところで 息継げば
見上げるばかりの 片山神社
いやぁ~、神様に初めて語りかけました。「ぼ、ぼく、今、急な坂道、降りてきたところなんですがぁ~」バックに、カルミナ・ブラーナが聞こえていたような気がします。
しばらくの間、頭の中も、脚も動かなかったんですが、お詣りしました。

片山の 社から先 行く道が
ガラリと変わる 鈴鹿の峠
片山神社から、極端に、道が変わりますね。林道という感じでしょうか。やれやれ、もうこの時刻から山の中に分け入ることはなさそうですね。

宿場町 丸ごと消した 土石流
今は木立の 中に碑ひとつ
坂下の宿場が元あったところ。このへんは、林道っぽい雰囲気だけど、少し上った片山神社からは、完全に山道。
坂下宿は、鈴鹿を目前にした宿場なので、53次の宿場の中でも、かなり賑わった方の宿場だとか。それが、1650年に土石流で壊滅したそうな。おそろしい。だれも有名人は被害に遭わなかったのかな。徳川家光上洛が、その16年前。
その後、この場所から1.3km東に、新たに宿場が整えられた。
水口 > 土山 | 坂下 > 関