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清洲 > 名古屋




ひと通り 桜を撮った 後で来て

 清洲城の信長像。
 いゃぁ〜、桜、満開! 人でもすごいね…、で、気がつくと、信長さんの像!「だいたい、この像を見るために、立ち寄ったんじゃないの? 信長さん、おこってるよ!」
 …と、おもいきや、普通の顔と言うか、思案の顔かな。話しかけるでない!って感じ。「桶狭間、出陣前の顔かな?」


右の手が 刀のつかより 数珠にぎり

 清洲城の信長像。
 神をも恐れぬ信長さん。仏をも恐れぬ信長さん。神に会うては神を斬り、仏に会うては仏を斬り…。「それ、柳生十兵衛じゃない!」
 いやいや、九世紀、中国は臨済宗の開祖、臨済義玄の言葉。「映画じゃないの?」 何ものにも囚われず、自由闊達に考える。まさに、信長さんだね。
 「でも、数珠を首から掛けて、握ってるね。」 まだまだ、清洲の信長さんだからね。


実像の 分からぬ姫や 木陰から

 清洲城の濃姫像。
 「この方、謎の姫様なんだってね。」う〜ん、そうみたいだね。斎藤道三の娘だから、豪快に本能寺で戦って、亡くなったものとばかり、思っていたけど…。
 「ほぼほぼ、何ひとつ分っちゃいないと言うような感じ。」 まぁ、小説家、脚本家は、喜んでいるだろうね。味付けし放題だもんね。「ある意味、文化に一番貢献できる人じゃないかな?」



敦盛を 舞って出陣 清洲城

 織田信長公桶狭間出陣乃歌の碑。
 「敦盛って、平敦盛?」 そう、源平合戦は、一ノ谷の戦いで、熊谷直実との一騎打ちに敗れ、わずか16年の生涯を閉じた武将。「文化面で、多大な貢献をしているけど、ここでは、日本史の表舞台に登場して、歴史をうごかしているよね。」
 確かに、幸若舞、敦盛がなかったら、信長さん、決断しなかったかもね。
 
 人間五十年
 下天の内をくぶれば
 夢幻の如くなり
 ひとたび生を得て
 滅せぬ者のあるべきか



菜の花を 添えれば土の 匂いして

 清洲城。
 「不思議だね。町の中にあるのに、この写真だと、思いっきり郊外にあるように見えるね。」
 もともと、お城って、軍事施設と言えると思うけど、花が合うね。



清洲城 最後の城主は 信成くん

 清洲城。
 「信成くん…って、織田信成くん? フィギュアスケートの?」 そう、2010年に、一年間の名誉城主に就任してるよ。
 「清洲に、織田家復活だけど、信成くんって、ホントに信長さんの子孫なの?」 いや、違うんじゃない? だって笑顔良しだもん。「そこっ?」



花の額 順番待って 清洲城

 清洲城。
 誰かが、撮影のいいポイントを見つけたら、それを見ていた人が、順番に一、ニ枚ずつ撮っては、どうぞ、ってな感じで、譲っていく。撮った人の顔も笑顔、次に撮る人も笑顔。いいね。この雰囲気。この光景。



花の道 お城なくても 人集い

 清洲城。
 究極の話、そう言うこと。「まぁ〜、今日は、そう言うことでも、いいんじゃない…かな。で、お城の中は、入ったの?」 は、入ってない。「結局、そう言うことでしょ。」



清洲越し 橋まで一緒に 引っ越して

 五条橋。
 「清洲越しって言うのは?」 江戸時代の初め、名古屋城を築城した時に、清洲の街を、丸々引越しさせた。「丸々?」 そう、その丸々の例がこの橋。「へ〜、橋まで、持っていく? ここ、街道なのに??」



ふるさとを 思うような 姿など

 信長ふるさとの看板。
 信長のふるさとって、あるね。「なんか、すごい違和感がする言葉だね。」
 そうだね。ふるさとっていうと、生きてきた道を振り返って、懐かしく思うところ、って感じがするけど、信長さんは、常に前に進む人、後ろを振り向かない人ってイメージするからね。



湊へと 津島街道 ここからも

 新川橋。
 「おっ! 津島への道、また、あったね。」 これが津島上街道って、言われている道だね。「いつかは、この道も、行ってみたいものだね。」



名君で あればあるほど 捨ておけず

 新川。
 この川は、江戸時代中頃に造られた、人工の川。水害の絶えなかった庄内川西岸において、庄内川をオーバーフローした水や、西岸地域の何本もの河川の排水のために計画された。言い出したのは、この地域の総庄屋を勤める丹羽義道。「総庄屋?」 そう、清洲十四ヶ村総庄屋。ってことは、みんなの総意というか、切なる願いだね。勘定奉行の水野千之右衛門が、具体的な計画と予算を殿に提示。「どうなったの?」
 却下! 「ダメじゃん! 名君‼︎」 そう、この時のお殿様は、尾張藩中興の名君、徳川宗睦(むねちか)公。でも、その時点では、藩の財政状態は悪く、とても工事を行う余裕はなかった。しかし…。「しかし?」
 1779年に、庄内川の大洪水が発生する。惨状を目の当たりにして、名君は、計画実行を、指示したようだね。「さすがわ名君。よかったね。」
 いやいや、ここからが問題。「何? なに?」



民のため 御三家あるじを だましても

 新川。
 新しく川を造る計画、これ、結構、壮大なもの。ざっとだけど、幅約六十〜七十メートル、長さ二十キロ。「二十キロ…、まぁ、確かにトンデモない工事だね。」
 そして、工事着工後に、これまたトンデモないことが、発覚する。「何? なに?」
 工事費用が、随分と過小に計算されていた。「えっ? 今でもよくある、上乗せして、自分のポケットに入れるってやつの反対だね。計算間違い?」
 いやいや、責任者の水野さん、藩の内情を知っているから、実際の見積もりでは、絶対に殿様の裁可がおりないと考えた。逆に言うと、流域領民の生活を守るための工事をスタートさせるには、まず、少なく見積もって、裁可を受けるしかないと。
 「でも、結局、バレたら、工事が縮少されて、当初の計画の効果が発揮できないんでは?」 いやいや、工事は、やめられない!「えっ? なんで? なんで?」



騙された 方も名君 民のため

 新川。
 水野千之右衛門さん、工事区間の二十キロを、二百ヶ所に分割して、同時着工させた。「なんと…。工事の縮小のさせようがないね。」
 水野さんは、責任をとる形で…。「えっ? この時代だから、もしかして、切腹??」
 役職を降格、謹慎。「よかった。」 と、思っていたら、ひと月も経つと…。「切腹?」
 元に戻って、工事を差配していた。「ほ〜、さすが、名君。」 そして、ある意味、試されているような気もするこの名君も…。「名君も?」
 将軍に対して、頭を下げ、幕府から公金を出してもらっている。新川開削の工事は、三年で完成。完成翌年の大洪水規模の気象も、乗り切ったそうな。


一家臣 生きてるうちから 碑が建って

 新川。
 新川の開削から、三十年ほど経ったころ、水野千之右衛門の顕彰碑が、建てられた。「まだ、江戸時代だよね?」
 江戸時代だと言う以前に、まだ、本人が生きているうちに、建てられた。「すごいね。尾張藩の一家臣でしょ。」
 それだけ、流域領民の、願いが大きく、感謝の気持ちが深かったってことだよね。


開削で 全て終わった わけでなく

 新川。
 実は、新川は開削完了で、おしまいではない。「そうなの? これだけ、やったのに?」
 水野千之右衛門も、そう思っていたようだけど、開削したところで、数十年経つと、土砂がたまり、排水能力が落ちて、洪水の発生するリスクが高まると。「なるほどね。じゃぁ、どうするの?」
 荒れている山をなくす。植林とかね。それと、川の土砂を流すこと。「う〜ん、流れが緩やかだと、砂が溜まっていく一方だからね。」難しいよね。
 今でも、流域では、ビル、マンション、工場などでは、雨水浸透ますや、雨水調整池の設置、駐車場などでは、透水性舗装等の対策が必要とされているようだね。「できるだけ、降雨時の増水を抑えるってことだよね。」



家々も 電線あれども 迫力の

 新川橋から見る御嶽山。
 「お〜、あの雪をいただいている山は?」 う〜ん、たぶん、おそらく、御嶽山、だと思う。
 「…、神の山。前に、電柱、電線、色々あるけれど、ホント、迫力あるね。いいね。」



異文化の 土地に来たよな 屋根神様

 屋根神様 飴茶庵。
 「お〜、あれが、屋根神さまですか。」 そのようだね。たまたま、交差点で立ち止まったから、見つけたけどね。
 「お供えとか、どうやって置くの?」 すわぁ〜。いきなり、その手の質問?「だって、自分が、この家のひとならと思うとね。物をもってのハシゴは無理だし、二階から出て物を持って屋根の上を歩くのも、怖いし…。」ネットで検索すると、梯子をかけて、って、あるね。あきらめて。「…。」



家でなく 組町内を 守る神

 屋根神様 飴茶庵。
 「屋根神さまって、家の屋根の神さま?」 なんか、直球的な質問が多いね。
 屋根神さまは、文字通り屋根に祀っているから、そう呼ばれているみたいだね。実際に祀られている神さまは、秋葉神社、津島神社、熱田神宮や、地元の氏神さまのようだね。「見たところ、各家ごとに、あるわけでもないの?」
 そのようだね。たいていは、小さい規模の地域で祀られているみたいだね。「へぇ〜、そうなんだ。」



下を見ず 周りも見ずに 二階見て

 屋根神様 一休庵。
 「なんか、さっきから、歩く姿勢が、変だけど?」 そうだね。屋根神さましか、見てないと言うか…、あっ! あった‼︎


2022.04.01.午前:
 清洲から枇杷島まで、てくてく。

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