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岡崎 > 藤川

戦って ぶち壊すだけの 人でなく
田中吉正公像。
「田中吉正、田中吉正…?」 関ヶ原の家康最後の陣の…。「すぐ前に、本陣を構えていた…。」 石田三成と同郷で…。「三成を捕らえた人! そう、そう、そうだったね。」
田中吉正公は、小田原征伐後に、岡崎を与えられ、以後、関ヶ原の戦いまでの十年間、岡崎の街づくりに情熱を注ぐ。「城造りじゃなくて、街づくり?」
もちろん、お城も整備、さらに、街を囲む堀を巡らせ、低湿地帯の埋め立ても行う。さらに、さらに、城の南を流れる乙川の南を通っていた東海道を、城の北側に引き込み、二十七曲りを設けた。「戦時には、入りにくく、通過しにくく、平時には、通過する人の滞留時間を長くして、商売繁盛に持ってくる?」 そう。大した人だね。
故郷の 面影とうに 無くなりて
田中吉正公像。
徳川家康は、岡崎生まれだけど…。「けれど?」 岡崎の街を生んだのは、田中吉正だと言えるんじゃないかな。「なるほど。」
関ヶ原に向かう家康。
「曲がり角の多い城下じゃのう?」
「二十七曲りと称します。」
「でも、どことなく故郷を忍ばせるな。」
「古いものも、残していますので。」
「ここは、何という城下じゃ?」
「えっ? 岡崎ですが?」
「……。」
…なんてね。m(_ _)m。
街中の 公園にこそ 像があり
田中吉正公像。
「やっぱり、街を作り直した人だからってこと?」 それもあるけど、城下を普請しているときは、毎日見廻って指示を出し、弁当を届けさせて、道端、堀端で飯を食い、民とよく会話したそうな。「何? その名君ぶり? すごいよね。」
秋の米の収穫時も、自ら様子をみてまわり、自分の目で見て、税率も決めたそうな。「お百姓さんからも好かれたとか?」
その代わり…。「その代わり?」 寺社に対しては、すごく厳しかったそうな。「なにゆえに?」 う〜ん、街の再開発で、寺社に移転などを強要したせいじゃないかな。「なるへそね。」

まず左 右に二回で もとの通り
二十七曲り り。
「左に一回、右に二回曲って、この交差点?」 こ、この交差点の通りは…。 「通りは?」 河川敷を小学生が歩いていたのを見た橋…の、通りと同じ。 「真っ直ぐ、来ればよかったね。」 おいっ!

鎌倉も 負けじとばかり 顔を出し
浄瑠璃寺。
「鎌倉…って、鎌倉時代の鎌倉?」 そう。源義経ゆかりの話があるそうな。「神君一色の街ではないんだね。」
義経さんが岡崎、矢作の里で宿をとったとき、浄瑠璃姫が奏でる美しい琴の音が、聞こえてきた。「ほ〜。」
その美しい音色に惹かれて、義経が笛を奏でたことから愛が芽生えた。「美しい情景だね。いいね〜。」
ところが…。「ところが?」
義経に 愛を奏でる 笛があり
浄瑠璃寺。
義経は、鞍馬寺を飛び出して逃亡、奥州平泉の藤原秀衡を訪ねる途中だったので、旅立たねばならなかった。「なんと…。すぐに、別れになるの?」
辛い別れの際に、義経は姫に笛を授けた。「二人の愛が生まれるきっかけとなった笛ね。」 そう、しかも、父:源義朝の形見として、母の常盤御前からもらい、幼い頃より肌身離さず持っていた笛。
「えっ〜、…と、言うことは…。」 ん〜? 「京の五条の橋の上で吹いていたのも、この笛?」 そ、そ、そうじゃないかな…。「それで、弁慶さんと、恋に落ちたのね。」 おいっ!
将来が 見えたとしても なかなかに
浄瑠璃寺。
笛を授かった浄瑠璃姫、でも、義経への想いは、日毎に増すばかり。ついに、悲しみに耐えきれず、川に身を投じてしまった。「なんとね…。」
この浄瑠璃寺は、姫君のお父さんが建てたお寺で、義経と姫の画像が安置されているそうな。
「う〜ん、悲しいけれど…。」 けれど? 「相手が、義経さんじゃね〜。どこまで、辛抱して待っていても、不幸になってたんじゃないかな?」 いや、最後まで我慢してれば、よかったんじゃない? 「えっ〜、平泉?」 いやいや、六盤山。「六盤山?」 チンギスハンが、亡くなったところ。「おいっ!」

もうすでに どっちを向いて いるのやら
二十七曲 と。
この辺に来て、畳み掛けるように、曲げてくるね。「ここの角は、と…だから?」 いろはにほへと…で、七番目の角だよね。「…と、いうことは?」 何となく、いろは順を、逆にたどっている感じだから、あと六つで、スタート地点到着になるね。
「最初に、このスタイルの案内を見たのは、12番目の丸囲みの…を…だったかな。」 27個あるうちの12番目までしか整備されてないことになるね。「十超えたら、誰も数えないだろうとか思ってるのかな。」 おいっ!

次の世の 卵を抱いて いるのかな
籠田公園戦災復興記念碑。
「次の世の…たまご?」 戦災復興之碑だからね。「なるほど、そゆこと。」
岡崎の空襲では、岡崎市の三分の一が消失したそうな。 「かんと。大きな軍需工場とかが、あったの?」
たくさんあった名古屋の大工場の下請け工場の破壊と、国民の戦意を打ち砕くのが目的だったそうな。「それって、ほぼほぼ、何にもない、普通の街を爆撃してるようなものだね。まったく、ひどいね。」
終戦の 一カ月前の 空襲で
籠田公園戦災復興記念碑。
「終戦の一カ月前?」 そう。岡崎の空襲は、昭和20年7月19日から20日にかけて。「なんと…。むちゃくちゃだね。」
確かに、もう、先が見えていると言うのに、毎日のように都市への爆撃、広島と長崎への原爆投下、むちゃくちゃだね。

江戸だけじゃ なく大正も ありにけり
旧商工会議所。
「かっこいい建物だね。」 そうだね。大正六年の建築。旧岡崎銀行の本店だそうな。
「今も、銀行?」 いやいや、戦後は、廃墟になっていたのを商工会議所が使い、老朽化で取り壊しの話が出た時は、岡崎信用金庫が外観を残して内部改造し、資料館として残されているよ。「なんか、当時の精神は、連綿と受け継がれているような気がして、いいね。」

飯盛女 唄に三味線 踊りまで
伝馬町 飯盛女。
「唄に三味線、踊りまで…か、どう?」 まだ、お昼前、十一時前だからね。ドンチャンする気には…。「まぁ、確かに、あまり疲れてもいないし。」
でも、ここは、大先輩の、弥次さん喜多さんに倣って…。「お〜っと…、東海道中膝栗毛の岡崎の記事は?」
二つ先の赤坂の宿で泊まって、ひと騒動。次の日は、早朝に出立して、藤川の宿で、ひと休み。それから、わが岡崎に着いて…。「着いて?」 矢作の橋で、狂歌を一首。「おいっ! 矢作って、岡崎、過ぎてるやん!」 まぁ、我々と似たような時間帯に、通り過ぎたんじゃない?

鉄道の 開業時期の 長ならば
伝馬町 田中吉政公。
「この、岡崎の街、鉄道敷設の時に、街の中心地近くに通すのを嫌ったために、後々、発展しなかった街の、代表例みたいに聞いたことあるけど?」 うん、聞いたことある。「出典は?」 バスのガイドさん! 「おいっ!」 マジなんですが…。
「その時代に、田中吉正公がいたら、どうなっていたかな?」 岡崎二十七駅を造ってたんじゃないかと…。「やり過ぎ!」
でも、実際は…。「実際は?」 岡崎が鉄道を嫌ったっていう根拠になる資料は、まったくないみたいだね。「そうなんだ。」 昭和期には、政治家が無理やり通したとか言うたぐいの話が他の地域でも結構あったけど、一次資料をあたって、そうじゃなかったって例もあるみたいだね。「昔聞いた話は、結構虚構もあったってことね。」

宿場町 宿場だけで ある訳じゃ
伝馬町 助郷。
「助郷って、宿場で、人馬の不足を補うもの?」 そうだね。人足と馬が不足したら補うものだけど…、大変だったみたいだね。「そんなに、大変なの?」
賃金は出ても、市場価格の半額程度。「そら〜、きついね。」 しかも、遠くの村だと、前後も宿場に泊まらなきゃならないと、三日も拘束されることになるね。「賃金は一日分?」
それに、農繁期であっても、関係なし。「一番忙しい時にかりだされたり?」 たまらないね。
来世にて 生まれる時は 助郷の
伝馬町 助郷。
「どういうこと?」 天下農民のうち、生を定助郷各村々に受くる者ほど不幸な人民は、他にあらざるべし…とまで、いわれるほどであったとか。「そ〜んなに、ひどかったの?」
超高速!参勤交代…を、見た時は、大名も大変だと思ったけど、かりだされている人足に比べたら…。「武士なんて、まったく、誰のおかげで、食べていけてるの?って、感じ。腹が立ってくるね。」
不満が募ると、助郷村の範囲も、広がっていったらしい。「まわり回って、不満持つ人、どんどん増えるよね。」
十代将軍のころ、幕府お膝元、武蔵の国の中山道沿いで、助郷の負担増に対する一揆も起こったほど。「そんなことも、あったんだ。」その規模は、二十万人とも。「に、二十万人…。ば、幕府滅亡?」

行列も 見物客も 大人数
伝馬町 朝鮮通信使。
「朝鮮通信使…、街の記憶に残ってるんだね。」 そうだね。大幹線、東海道を行き来する人は、すごい数になるだろうし、大名行列でさえ見慣れたものじゃないかと思うけど、朝鮮通信使は江戸時代270年間通して、たったの12回だからね。「その12回が、記憶に残っているのは、すごくインパクトがあったのかな?」
まぁ、話す言葉も、服装も、まったく違うからね。「一生のうちで、一度か二度? 見逃すわけにはいかないだろうから、やっぱり、結構人が集まったのかな?」

おもてなし お犬さまの 上を行き
伝馬町 お茶壺道中。
「でたぁ〜、悪名高い、お茶壺道中!」 そうだよね。美濃路の稲葉宿では、子供が斬られたという話もあったよね。
「岡崎でも、大変だったのかなぁ?」 案内板によると、通過するだけじゃなかったみたいだね。「泊まったの?」 休憩をしたようだけど、ご馳走屋敷というところに招き、岡崎藩のご家老が出向いて、丁重にもてなしたようだね。「街道筋の藩のご家老は、大変だね。」

音に聞く 平八郎より 強そうな
東岡崎駅前の家康公。
「この方は…、本田平八郎忠勝さん?」 違う、違う。持っているものをよく見て! 「槍じゃなくて、弓と矢、なんだね。」
「弓矢…ということは…、徳川家随一の弓矢の使い手、内藤正成?」 違う、違う、台座の文字を見て!
「厭離穢土欣求浄土…ということは…、大樹寺の登誉上人?」 なんでやねん! 神君家康公でしょ!
「お城の中でも、たくさんの家康公にあったけど、この像が、一番凛々しいね。」 確かに。「試験に出ても分からないし、そもそも家臣でも分からないかも?」 おいっ!

腰掛けて まずはさっぱり 足洗い
伝馬町 旅篭屋。
「あ〜、いいね〜。」 これは、旅篭に到着して、脚を洗ってる情景? 「ホント、気持ちよさそうだね。」
岡崎は、本陣、脇本陣は別として、旅篭が、百十二軒、東海道五拾三次中、三番目の規模を誇る宿場だったようだね。

東から 西から集う 文化人
伝馬町 市隠亭。
市隠亭は、伝馬町の塩商人:国分次郎左衛門が屋敷内に造った書斎。ここに、旅行者など多くの文化人の交流が生まれたそうな。
超有名な人が立ち寄って…とかじゃなくて、ここで触発され大きくなった人も多かったんではと思えね。
その中には、岡崎生まれで民俗学の先駆者:菅江真澄もいたとか。「どんな人?」 本草学や写生などを学んでおり、信濃、越後から、出羽、陸奥、蝦夷地を旅して、膨大な紀行、随筆、素描を残したそうな。「う〜ん、旅に生きる…いいね。」でも、なんか、残さないとね?「役に立つものをね。」おいっ!

一里塚 ええ木を榎と 聞き違え
伝馬町 一里塚。
「なに? これ? 旅人さんの話?」 いやいや、神君家康公が、街道整備の総監督の大久保長安に、一里塚には、ええ木を植えよ…と、言ったのを、えのき…と、聞き違えて、榎を植えていったとか。
「それ、ホンマかいな?」 そのせいで、一里塚には、榎が一番多いとか。「塚への根づきが良くて、早く大きくなるからじゃないの?」

侍は お勤め庶民は 娯楽にて
伝馬町 往来手形。
「昔は、往来手形が必要だったんだね。今の感覚じゃ、ちょっと、分かんないね。」 そうかな? パスポートと、同じでしょ! 「国内の話!」 国内でも、埼玉から東京に入る時には…。「それ、翔んで埼玉?」 m(_ _)m。

土下座する くらいならかくれて 昼寝して
伝馬町 作法触れ。
勅使、朝鮮通信使、大名行列等がやってくる時には、宿場全体に町奉行から出迎に関する通達がでたようだね。「見たら、道端によって、土下座しろ…とか?」
もっと、細かいね。「…と言うと?」 道路に盛り砂をする、手桶、箒を出しておく、所定の場所に提灯を掲げる、法螺貝、鐘、太鼓、拍子木は鳴らさない、街道では前日から田畑に下肥を施したり、ゴミを焼いたりしない…などなど。「細かいね。」 迷惑だよね。仕事できないじゃん。

うまそうに 食べるお客が 広告塔
伝馬町 あわ雪茶屋。
当時の岡崎の美味しい食べ物と言えば、あわ雪茶屋で出されていた、淡雪豆腐…だって。「茶屋で出されていたのは、お豆腐だけ?」
ごはん、おしんこ、淡雪豆腐のセットメニューで、十八文、今の値段で五百円弱かな? 「かなり、あっさりした味?」
どうだろ? 淡雪豆腐って言うのは、葛や山芋をベースにした醤油味のあんをかけた、あんかけ豆腐だったようだね。「なんか、お腹空いてきたね。」

御朱印の 中で馬牽く 人がいて
伝馬町 駒牽朱印。
駒牽朱印(こまびきしゅいん)と言うのは、徳川幕府が公用で宿場に常備されている伝馬を使う際の許可証となる朱印状に押される印鑑だね。
「なるほど。でも、よく見ると、権威ある印鑑なのに、文字だけじゃなくて、馬を牽く人物の絵がデザインされてるね。」 なんか、オシャレだね。

東海道 月に三度も 往復と
伝馬町 三度飛脚。
「本当に、毎月三往復もしていたの?」 そのようだね。もちろん、一人の飛脚が、三往復していたんじゃないよ。「そらそうだろうね。」リレー方式で、運んだようだね。
「一番早い便だと、どれくらいの速さでとどいたの?」 幕府公用の便で、江戸と京都を最速三日だね。「早いね〜。」 三度飛脚は?「八日ほどだね。」 それでも、早いね。「旅人さんは、ここまで、どれくらい、かかっているの?」 さぁ〜、もう、分かんないね。

結界に 入ったように 身を正し
随念寺。
「ここは、また、インパクトある、エントランスだね。」 神君家康公が、祖父:清康公とその妹:隋念院の菩提を弔うために建てたとされる。
「祖父の妹さんと同じ名前のお寺なんだね。」 隋念院は、幼い家康の養育にあたり、また、家康が人質になってから岡崎に残った、ただ一人の松平家の血縁者として、領内に対する家康名の発給書は、彼女が出していたのではとも言われているそうな。「実効支配は、今川家臣団だろうけど、名目上の女当主だったのかな?」

よく見れば 城より古そな 公会堂
旧公会堂。
これは、旧額田郡公会堂。大正2年の建築。洋風で、オシャレ、爽やかさを感じさせつつ、よく見れば、ちょっと、はげてたり…。「おいっ!」
で、かたや、お城の方は、昭和34年の建築。見かけは江戸時代、中身は鉄筋コンクリート。「そら〜、お城の方が、新しいわな。」
ちなみに、先ほど通った旧商工会議所:岡崎銀行本店は、大正6年だったよね。「同じ大正でも、全然、印象が異なるね。」 銀行本店は、重厚、信用第一って感じ。
「そういえば、中山道にあった旧愛知郡役所も、ここと似てなかったっけ?」 あちらも、大正時代だったけど、用途は役場。こっちの方が、より開放的かな。
2023.03.14.:
愛知環状鉄道中岡崎駅から名鉄藤川駅まで、てくてく。
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