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草津 > 守山

街道を 行く人歓迎 駅広場。
JR草津駅。改札を出たら線路をまたぐ陸橋。陸橋を南へ出ると、そのままこの写真。
一日平均3万人の乗車客がいるみたいだけど、今日、この駅へ来て、この広場を見て、”あ~、草津だ~”としみじみ感じて写真撮ってるのは、街道を歩いている私ひとりではないでしょうかね。草津は大阪・京都への通勤圏で、駅前にも結構高層のマンションが建ってるもんね。

広重の 絵の下くぐる 中山道
草津の追分:東海道と中山道の分岐点。写真のトンネルの上を通っているのが旧草津川。今は、公園になっているところが、広重の絵に。現在の中山道はその川の下のトンネルをくぐってスタートする。「う~ん、ぼ~っと、聞いていたら、何のことやら? 何で、川が上を流れていて、川の下がトンネル?? よく分かりませんが???」
でも、中山道のスタートがトンネルからって、インパクトあるね。
賑わいを 形で残す アーケード
草津の中山道の、ほぼほぼスタート地点。「短いアーケードと高層ビルが目を引くね。」
昔の宿場の町並みから、商店街になって、アーケードが出来たときには、なんちゅう的な感じを受けただろうと思うけど、それも今は昔で、まわりには高層ビルが建って、アーケードさえ昔懐かしいという感じだね。「アーケードなんて、そのうち無くなるだろうね。」
今の時点に立って見ると、アーケードを作った頃の人に、"なんで昔の姿を残さなかったんだ!”って思うけど、百年くらい経ってから、”なんで、その当時の人はアーケードを残さなかったんだ!”とか、なったりしてね。m(_ _)m

道しるべ 古い神社の 向こうはり
伊砂砂神社の前の道標。神社の鳥居の横、神社の由緒書きのすぐ前にある、かわいい道標。
「いいですね、これ。」 古いところに、場違いのように、新しいものがあるような感じじゃなくて、妙に、合ってるね。
帰ってから、写真を見たんですけど、道標の後ろにあった神社の由緒書きを撮影し忘れてますね。「ありゃ~。かわいい道標、よかったのかどうか。笑」

ここ一番 神は静かな 杜にいて
伊砂砂神社。もとは、天大将軍社と言ったそうな。「すごい、大きな、恐れ多いような、名前ですね。」
平安時代に疫病が流行った際に、村人が大将軍を祀って祈ったのが始まりで、干魃の際も、雨乞い祈願により雨が降り、逆に豊作になったとのこと。「なるほど、ふたつ合わせて天大将軍だね。」
絵馬もたくさんあったね。御祭神の御神徳としては、健康長寿、国土経営、安産育児、成長発展、厄除病除とありますね。「で、何をお願いしたの?」 もちろん、国土経営。「....」

大きなる 目印見えて 足早に
大宝神社の前。こんもりとした杜が見えてたので、急に元気になってやってきました。
「この神社、か~なり、大きいね。」 そう、遠くからでも大きい感を受けるけど、実際に鳥居をくぐって進むと、かなり広大だね。
ということで、休憩。「先に、参らなきゃ!」 失礼しました。

厄払い 同級生の 名が並び
大宝神社。「たいほう、って、大宝律令の大宝?」 そう。大宝元年、西暦701の創建。疫病が流行したため、素盞嗚尊、稲田姫命を祀ったら、疫病が収ったとのこと。「すっごく、昔だね。」
この神社、なんか、ちょっと変わった感をうけるというか、なんというか...。「この門だね。」 これは、1700年頃に宝鏡寺宮の親王の病気平癒祈願の御礼だとか。まあ、これだけじゃなく、おそらく地元の方だろうけど、厄除け祈願の御礼だろうか、あちらこちらに同級生連盟で奉納されているものがたくさんあった。単に、神様を祀っているだけじゃなくて、地域のみなさんの思いがある感じがするね。

芭蕉翁 一句記せば 名所なり
大宝神社の芭蕉句碑。
へそむらの まだ麦青し 春のくれ
これ、詠んだときは、神社を背にした方向は、一面の麦畑だったのかなぁ。今は、旧街道の両側は家がず~っと続いて、想像の世界にだけ広がって...、と思っていたのだけど、この日の午後から歩いた志那街道で、これかなっていう風景があったので、写真掲載しました。大宝神社から北西へ直線距離で2キロくらいのところ。部分的にじゃなくて、結構、広がってましたね。芭蕉翁のときから、継続して麦畑なのかな??
大宝神社には、”栗東八景”のひとつとして、”青麦の薫風”という案内板がありましたけど、これって、芭蕉の一句から取っているのかな? 「いや~、でも、やっぱり、麦といえば黄金色じゃない?」 いや、ビールでしょ! m(_ _)m

女王と 同じ春風 受け止めて
「女王....、って?」 もちろん!卑弥呼。「ひ、ひみこ??」
ここは、邪馬台国があったところ、伊勢遺跡。奥は近江富士こと三上山。「うそ! 中山道沿いに邪馬台国があったなんて、聞いたことないけど???」 便利良かったからかな。「は~?」
「邪馬台国論争は、九州大学&東京大学連合軍対、京都大学の戦い、ひいては地域対抗合戦で、よい子のみなさんは、決して関わらないようにと学校で教わったような...」 その代表が、九州説と近畿説。「そのどちらも蹴散らして、近江説・で・す・か??」
その規模は、写真にある空き地だけがそれじゃなくて、近くの神社・小学校・集落もまるごと収るような広大なもの。「ほ~。」
しかも、この時代の遺跡では他に例をみないくらい大型の建物が多く確認されており、魏志倭人伝にいうところの卑弥呼がいた「居処、宮殿、楼観、城柵」にそれぞれ対応するものではないかと思われている。「ほ~、ほ~。」
しかも、おそらく伊勢神宮の本殿と同じ形であろうと思われる7つの建物跡が、円周上に並んでいるらしく、逆にそうだとすると、円周上には30個の建物があり、魏志倭人伝による卑弥呼擁立前の倭国大乱で30カ余国と記載されているのとぴったり。「ほ~、ほ~、ほ~。」
さらにさらに、遺跡には、日常的な生活に関連するものが出土しておらず、もっぱら祭器を祀るのみの象徴的な場だったと考えられるのよ。したがって、上記の30個の建物も、各国の祭器を祀ったとか?

八百万 同じ春風 受け止めて
「八百万?」 もちろん、八百万の神。「や、やおよろずの神??」
ここは、神話に登場する高天原の天安河原。「うそ! 中山道沿いに高天原があったなんて、聞いたことないけど???」 便利良かったからかな。「は~?」
天照大神が天の岩戸に隠れられたとき、困り果てた神々が集って、相談さいた場所。近くを流れる野洲川が、つまり、安河。「ほ~。」
この神話の話、卑弥呼が隠れた後に再び倭国が大乱になって収集付かなくなり、各国が集って話し合いをもった話とそっくり。「ほ~。ほ~。」
野洲川は、超おだやかな琵琶湖にそそぎ、淡水湖に注ぐ川としては最大の三角州を形成しており、元々の本流は、おそらくこの辺を流れていたと思われる。外海に面したところからすると、上流の山をさかのぼってある天上界の湖という感じだろうか。
「す、すごい! やっぱりここが邪馬台国!」 そう、ガンバレ! 滋賀県!! 「やっぱ、地域対抗じゃない??」

女王や 二千年後に 顔をだし
邪馬台国の跡ではないかと言われている伊勢遺跡。そこへの案内板。このキャラは卑弥呼でしょうかね。
魏志倭人伝には、王となってからは、彼女を見たものは少なく、身の回りには千人の女性が使えており、たった一人の男子だけが、飲食を給仕するとともに、彼女のもとに出入りしていたとのこと。
その卑弥呼が二千年後に姿を現しましたか、ついに。かわいらしくって、応援しようかなって気になるよね。「目指せ、ゆるキャラ日本一!」 ゆるキャラじゃないし。まあ、でも、すでに年長大って書いてあるのにはあわないかもね。「台与じゃないの?」 えっ、そっち?

抜け道が ありても無視せよ 焔魔堂
五道山十王寺。小野篁の開基。
小野篁と言えば....。「昼は参議として御所に出仕し、夜は閻魔庁の閻魔大王の横っちょで仕事をしていたという....。」 そう、冥界との行き来には、京都の六道珍皇寺の井戸を使っていたとか。ここには、井戸はないのでしょうかね。「寄り道せずに、まっすぐ街道を行きましょう。」

中山道 ここまで急いだ 人はなく
住蓮房母公墓碑。法然上人のお弟子さん:住蓮房のお母さんのお墓の案内碑。後鳥羽上皇に死罪を言い渡された住蓮房。これを知ったお母さんが、ひと目会いたいと、この先の馬淵目指して中山道を急いだが、間に合わず、お母さんは、この地にあった池に身投げされたとか。「百人一首にあるので、好感持ってたけど、後鳥羽上皇、許せませんね。」
それに比べて、土地の方、えらいね。鎌倉時代の初期から、供養を続けておられるんだからね。

旅人に 地域自慢の 一里塚
守山は今宿の一里塚。写真を撮っていたら....、「葉が茂ってきたら、それは見事ですよ!」と、地元の方。
一里塚は、一里ごとに道の両側に五間四方の塚を築き、榎木や松を植えて通行の目安としたもの。ここの一里塚は、道の片側だけではあるが、街道の多い滋賀県内でも、現存するのはここだけと、地元の方。確かに、立派です。

はてしなき いつからあるのか 物部の
勝部神社。物部布津神(もののべのふつのかみ)を祀る。
「もののべ?」 そう、物部氏のもののべ。「むっちゃ、古いんじゃない?」 学校で、聖徳太子のころに、仏教受容に積極的だった蘇我氏と、否定的だった物部氏との間で争いが起き、その後、蘇我氏が物部氏を滅ぼしたんだっけ? 「じゃ、ここは、物部氏が落ち延びてきたところ?」 いや、そうじゃないかな。物部氏は、諸国に沢山支族があったようだし、そのうちのひとつがこの辺りを開拓していたのかな。「滅びる以前に、全国展開していたのなら、かなり古いんだね。」
ところで、ひとつ。「なに、何?」 物部氏が滅びたときのトップの名前は? 「物部の守屋。」 ここは? 「守山....、えっ、やっぱり落ち延びてきたの?」 う~ん、守山は、叡山延暦寺:つまり山の東を守るところという意味があるらしいから、違うみたいだけど、何かありそうだよね?m(_ _)m
有名な 人がいたのか 最明寺
最明寺。"最明寺殿”と言えば、鎌倉幕府五代執権北条時頼。なんと、本人が上洛する際にここに立ち寄って、開いたという。「へ~、北条時頼って、上洛したことあるんだね。」 そら~、”いざ鎌倉”の”鉢の木”で有名な人で、諸国行脚の旅をしているから、きっと守山も訪れてるよ。「ホント? 結構若くして亡くなっているし、得宗家で、政権担当者で、忙しいでしょ。三浦一族を滅ぼしたり、親王将軍を始めたり。」
まあね。でも、同じ最明寺という名前のお寺が、川越にもあって、縁起では、やはり諸国行脚の旅の途中で寄ったとき、暗殺された二代将軍源頼家の二男の千寿丸が草庵を結び貧しい生活をしているのに会って、源氏供養のために建立したとか。
「へ~、じゃ~、守山の場合も、同様にどなたかがおられたの?」 それは、わかんないね。 「年老いた源九郎義経がいたとか?」 まさか、時代が違うでしょ。 「そんなことないよ。時頼が亡くなる年には、義経104歳。」 会っても、分かんないでしょ、きっと、たぶん。m(_ _)m
広重の 描きし川も 見落として
守山の宿、土橋。安藤広重が描いた中山道守山の宿の絵に描かれている川。「はじめて通ったら、絶対、見落とすよね?」
でも、江戸時代には、川の幅は約40メートル弱はあったとのこと。野洲川は琵琶湖に注ぐ河口付近で幾筋もの川に分かれていたようだけど、元々の本流がここを通っていたみたいだね。この時代は、守山の町からこの辺りをとおって、志那街道沿いに流れていたような感じかな。「地図を見ると、なんとなく、旧の川のあとが、見えてくるね。」確かに、先に立ち寄った伊勢遺跡のあたりは、それよりも前に本流が通っていたのかな。地図をじ~っと見ていると、見えてくるよ。
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